”僕らのやってきたこととは、いわば、
『地方へのパスポートを手渡すこと』です。
今はまだ地方に関わりのない都市住民の方々が、
産地直送の新鮮な旬の食材を手に入れることができるルートを
拓き、同時に、その食べものをつくった地方の生産者たちと
出会い、交流できるようにする。
親子で、田舎に滞在し、
そこに暮らす人たちと出会う機会を提供する。
でもね、それだけでは、まだ不十分なのですよ。
田舎には、まだまだリソースも人手も、不足している。
つまり、都会に住まう人たちに、より深く、
地方に関わっていってほしいのです。
それが着地点です。”
「都市と地方をかきまぜる」をミッションに、「日本中あらゆる場の可能性を花開かせる」をヴィジョンに掲げ、「食べものの裏側にあるストーリーを伝え、生産者と消費者を直接つなぐ」食の流通プラットフォーム「ポケットマルシェ」をはじめとする、ユニークで革新的な事業を展開してきた株式会社雨風太陽。岩手県花巻市に本拠をおき、「ポケットマルシェ」のほか、自然の中で「生きること」を学ぶ「おやこで地方留学」プログラムから、日本各地の自治体と連携した生産者支援や販売促進事業などのソリューション・ビジネスなども手がける。地域と多様に関わる人びとを指す言葉として「関係人口」の創出を謳い、それがいかに日本の未来にポジティヴかつ大きなインパクトを与えるかを思い描き、事業をとおして現実化していく同社。創業から現在までの歩み、そして、現在から今後にわたる、その豊かで壮大なグランド・ヴィジョンを聞く。
取材・構成=川出絵里、シニア・エディター、『RPA MEDIA』
INTERVIEW & EDIT BY ERI KAWADE, SENIOR EDITOR, RPA MEDIA
被災地で起きた
「共感」という
化学反応を日常に
——以前は、岩手県議会の議員をなさっていたそうですね。起業までの道のり、創業に至ったきっかけと経緯を教えてください。
高橋 「東日本大震災がきっかけですね。自然災害というのは、その時代の社会の弱点を突いてくると言われています。東日本大震災の場合、どんな社会の弱点が突かれたのかというと、過疎と高齢化が著しく進んだ地方の生産地が抱える問題点が、まさに突かれた。では、なぜ、そこまで地方社会が脆弱化していたかと言うと、都市と地方の分断という長い年月をかけて生み出されてきた社会課題が、そこに浮かび上がってくるわけです。
もとを辿ると、第二次世界大戦後の日本は、1954年から1975年にかけて、22年間ものあいだ、地方に生まれ育ったわれわれの先輩たちを、『集団就職列車』で都会に連れ出していき、都市の労働人口に転換していたのですね。当時、地方社会の若年層、中学校を卒業したばかりの若者たちを、『金の卵』と呼んで、実に大勢の青年たちを、東京、大阪、名古屋の三大都市圏に片道切符で連れて行き、移住させていた。そうして重化学工業を中心に日本の経済を復興させようとした、そういう歴史が存在しているわけです。
これが、つまりは、地方社会の過疎化問題の原点なのですね。これだけの短期間にこれだけの規模で、当時の労働省が旗を振って、県や国鉄も応援するかたちで、いわば国策として、地方の若者たちを都市に連れていった国というのは、世界的に見ても歴史的に見ても、この時代、高度経済成長期の日本以外には存在しない。その結果が、都市と地方の分断となって現れ出てくるわけです。
高度経済成長期の日本社会では、『大量生産、大量消費、大量廃棄』が三つ巴になって加速していきました。『食』に関しても、生産から流通、消費までのバリューチェーンが間伸びしすぎて、食べものを消費する側の世界からは、その食べものをつくった生産者の姿や形が、まるで見えなくなってしまった。人間というのは、見えないものに価値を見出すことはできませんから、したがって、お金も払えないとなる。生産地の価値が、都市に伝わらなくなっていったわけです。
東日本大震災のときに、こうした都市と地方の分断の問題が存在するということ、そして、地方の食の生産地がひどく脆弱化していることが、あらためてはっきり浮き彫りになった。被災地の困難な状況を助けようと、たくさんの人たちが、日本各地から、救援ボランティアとして、あるいはビジネスとして、お手伝いに駆けつけてくれた。彼らの多くは都市住民で、それまで『食』の消費者でしかなかった人たちでしたが、被災地の『食』の生産者たちを助けようとして、生産者の側に立つという『未知との遭遇』のような経験をすることになったのです。みなさん、『生まれて初めて、漁師に会った。』というようなことを、当時よくおっしゃっていました。初めて食べものの裏側の世界を垣間見た方々が、その生産者のライフ・ストーリーや生産プロセスに共感を感じていらした。そして、そういう体験を経て、今度は、これからもその生産者の人たちが生み出す価値を一緒に守り育てたいと感じるようになっていった。『来年も、この人から、自分が食べるものを買おう』『この人のつくる作物のことを、会社の同僚に口コミで伝えよう』といった具合に、ある種の循環が自然に発生して広がっていったのですね。間延びしていたバリュー・チェーンが縮まり、顔の見えるバリュー・サイクルに変化して回り始めたようでした。
これが、僕がよく言う『都市と地方をかきまぜる』という行為のひとつの原点の姿だと思っています。『こんなふうに考える人が増えれば増えるほど、都市と地方の分断は解消されていくのではないか?』と感じました。では、そういう体験を、地震や津波が来た緊急事態のときだけではなくて、ふだんから日常的に行えばよいのではないかと、考えたのですね。それで、『東北開墾』というNPO法人を立ち上げました。そこで、『食べる通信』という、生産地で採れた食べものを、その生産者について書いた情報誌とセットで定期便で届ける事業を始めたのです。僕が編集長をやっていました。実際、スタートしてみたら、被災地で起きた化学反応が、物理的な距離の壁を超えて、情報誌とSNSを通じて再現できたのですね。それで、『ああ、これをやっていこう』と思えたのです。それが始まりですね。」
——なるほど。2011年の3・11が起きたその直後から、実際に、具体的な活動を始められ、自然にどんどん展開していったのですね。
高橋 「当時、僕は岩手で県議会議員をしていましたが、震災の4日後に被災地に入って、資材の搬送や炊き出しといったボランティア活動をしばらくやっていました。いつも車上生活者で、被災地をうろうろしていましたね。その秋に議員を辞めて、それからだんだんと事業に移行していきました。」
——「食べる通信」が、いちばん最初に手がけられた事業だったのですね。生産者の方々がつくる食べものを消費者の方々に、言葉とともにつないでいく。この事業は、今も、御社の主要な事業のひとつとして続けていらっしゃいますね。「食べる通信」とは、「食のつくり手を特集した情報誌と、彼らが収穫した食べものがセットで定期的に届く“食べもの付き情報誌”です」と、サービス・サイトのトップで謳われています。これは、「旬をむかえた、地域の魅力あふれる食材が情報誌とセットで届きます。いずれも生産者が丹精こめて育てた逸品。一般には流通しない貴重な食材も!」というサービスとのことですが、その食材を使ったレシピや、個性豊かな生産者の人と成り、生きざまの魅力に迫るレポート記事なども充実していますね。さらに、生産者と定期購読者の双方が参加できるフェイスブック・グループもあるとか。今の御社の主力事業である「ポケットマルシェ」も、生産者と消費者が、直接、コミュニケーションを取れるというところが新鮮な発想でおもしろいなと思ったのですけれども、そこに通じるこうしたコミュニケーション重視の姿勢は、すでに最初から基盤としてしっかりあったわけですね。
高橋 「そうですね、ありましたね。被災地で起きた科学変化が日常的に起こっていけば、都市と地方の分断が解消される助けになるだろうと思って始めた。もちろん、被災地は、とにかく復興させなければならない。けれども、たんにもとに戻すだけの復旧では、また過疎地に戻すだけに終わってしまうので、価値観と価格の変化をちゃんと形にしていくこと、つまり、『創造的復興』が必要だと思ったのです。
いわば、地方で起きていること、そこでつくられた食べものを、ダンボールの中に詰め込んで、都市部に住まう方々に届ける。食べものができるまでの裏側の世界が伝らないと、消費者は、値段でしか、食べものの良し悪しを判断しなくなってしまいます。できるだけ安いコストで、ただひたすらたくさんのものを手に入れる、費用対効果の最大化のような物差しとは違う、『新しい物差し』を提供したかったのです。被災地に支援にやってきた消費者が、生まれて初めて、生産者と、彼らがつくる食べものの裏側の世界に出会って、共感が生まれていった。そういう共感を、今度は、情報誌とSNSの力を通じて、再現することができた。そこから、すべての事業が広がっていきました。」
NPO「東北開墾」から
株式会社「ポケットマルシェ」へ
Source: ブロックチェーンメディア
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